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2019.05.01

インタビュー

今を自由に、 もっと楽しむ

陶芸家 山本勘弥さん

アーティスティックな仕事をしてみたいと思ったことがある人へ

何かをつくりだすことは簡単ではないし、時に苦労を味わうことだって待ってるかもしれない

それでもつくることを生業としている人は、どのようにして続けているのでしょうか?

 

例えば陶芸家は、土に命を吹き込む繊細な手仕事

その人の経験や思いを感じる作品は、とてもあたたかく魅力的だと思うんです

 

つくりだす苦悩すら楽しめる強さは

どうしたら自分のものになるのだろう?

 

好きなことはやってみる、

苦労だって楽しんでみる

 

私たちの生活に欠かせない『衣食住』。着心地のいい服、過ごしやすいリビング、お茶が美味しく飲める湯のみだったり。自然と自分が好きなものを選んで、身近な場所に置いている。自然と愛着のわくお気に入りのものに出会えた時にワクワクしますよね。そんな私が最近出会った、ご飯が美味しく食べられる土鍋。鍋の形、大きさ、色、どの種類の陶芸品が好き? と聞かれたら詳しくないから堂々と話せないけど。でもいつも手に取るのは、なんだか親しみがわく温かみのあるものというのは、変わらない。

この作品をつくりあげた人は、どんな人なんだろう?と、胸をはずませながら陶芸家の山本勘弥さんに会いに行ってきました。

 

少しずつ緑に囲まれていく小道をまっすぐ進むと、大きな山とログハウスが見えてきます。小さな坂を登り、ふと見上げると、山頂に大きな窯が4つ並んでいます。初めて見る、独特な窯の形に興味津々。ここは宮崎市鏡洲にある『根々』。ここでは『アトリエ根々』として油絵教室、子ども絵画教室、イベントを開催。また山本勘弥さんが営む『勘窯』があります。

 

ゆっくりと鉄の階段を降りて、最初に案内してもらったのは、秘密基地のような工房。そこには、陶芸教室でつくった生徒さんの作品や、陶芸用の粘土たちがたくさん並んでいます。

その光景に、ここで作品をつくっていらっしゃるのかと、なんだか一気に緊張感が。自然と背筋が伸びる凛とした空間を照らす、温かい日差しを背にお話を伺いました。

 

「私は、元々絵描きになりたいと思っていたんですよ」と山本さん。

そもそもアーティスト志望だった20代の頃のエピソードは、波乱万丈なものだったとか。

 

「当時、絵描きとして活躍するなら、まずはニューヨークで認められることだと、21歳の時にアートの世界へ飛び込んだんです。ニューヨークには、有名な美術学校があり、そこの卒業生には日本で活躍する画家もいました。しかし当時は、大学進学していないと入学できないなど、規則がありました。それでもどうしても学びたいと思っていた時に、自分の作品を見てもらえるチャンスをもらいました。そこで『君の描いた油絵を見せて』と言われたのですが、油絵の作品を持ってきておらず、日本へ取りに帰国しました。ただその後ニューヨークに戻るお金がなくて、徐々に気持ちや勢いがしぼんでしまったんですよね」

 

自身の願望へ素直に向かうエネルギーは、私たちも持っているはずなのに、なぜか一歩目を踏み出せない。山本さんが次に目指したのは、陶芸家の道。アーティストから一転、この道を歩くことになったのはなぜでしょうか?

「陶芸を始めたのは、22歳の時でした。父が趣味で陶芸をしていたこともあり、自然とその道に興味が湧いていました。プロになるために栃木県で益子焼を学び、それから2年ほどで独立。宮崎で活動を始めることに。そんなある日、佐賀県の唐津市の窯元を訪れた際に、登り窯を知りました。ガス窯や電気窯と違って、まきを燃やし火力を調整するので手間や時間はかかります。ですが、登り窯でしか出せない、ゆがみや色、小さな壺でも重みがあったり、その重さにも隠れた美学を教えてもらいました。機能性だけを重視しているわけではない美学がある作品に魅了され、良いやきものをつくりたいと思い、栃木県の茂木町に移住することにしました。登り窯のつくり手はとても少なく、益子でも2名ほど。ここでしか作陶ができない自分が納得のいく色や形を模索していきました」

 

登り窯に出会いさらに腕を磨き、展示会など徐々に軌道に乗っていた矢先に起こった東日本大震災。山本さんが、長年の間大切にしていた登り窯は、崩落。ダメージは大きいものでした。

大切にしてきた場所が、突然なくなってしまう悲しさや不安。自然の脅威は、私たちの当たり前だった日常を、あっという間に変えてしまいます。

 

「もう陶芸はやめようと思ったんです」

 

と当時のことを振り返って話す山本さん。もう一度、陶芸家として活動を始めたきっかけはなんだったのでしょうか?

 

「当時、益子町では登り窯の9割が倒壊しており、私の窯も修復することが厳しい状態でした。登り窯で、陶芸品が作れない。宮崎に戻る時はもう陶芸家を辞めようと考えていました。しかし、20年来の友人やいろんな方が支援してくれて。あれから7年かかりましたが、2018年6月に宮崎の地で登り窯が完成しました。登り窯は、火を入れて焼きあがるまでに何時間もかかり、その日の天気や気圧が色や形に関係する。自然との共同作業で作品が出来上がるんです。この前、出来上がってはじめて使った時には、予定より10時間以上オーバーして。それでも一緒に窯をつくってくれた人たちは一緒に見守ってくれてました。この時間を共有し、今しかできないことをできていると実感しました。その時ふと気づいたんです、陶芸家を辞めようと思っていたのに、辞められなくなっているなって(笑)」

 

何事も楽しむという視点、作品をつくりだすことへの思いなどが、周りの人たちを巻き込む魅力なのだと感じます。でも実際に好きなものを追求し、つくり続けることは、難しいと思うんです。

 

「実際、自分がつくりたいものとお客さんが求めているものが違うこともあります。皿や器などは、キレイで、軽くて、使いやすい、機能的に優れているものが売れる世界というのが現実。しかし、私がつくりたいものはどこか愛着がわく自由でアートなもの。絵は飾るだけだったり、身近な存在になりにくいですが、皿や器は身近な存在。身近すぎてそこにアートなものが必要かというと必要性を感じる人は少ないですが、それでも自由なアートを感じられるものをつくり続けていきたいと思っています」

 

私も何かこれだけは譲れないというものを見つけたい。もしかしたら今まで出会っているのに、気づいていないのかも? 好きなこと、やってみたいことに挑戦するのは、失敗したり辛いことがある気がして、いつも楽な方を選択してしまいます。

 

「20代で体力があるうちに、迷わずやってみた方がいいと思います。もちろん楽しいことだけではないのが、現実です。しかし辛いことや苦労することも、私は楽しむようにしています。こんなに自由にやりたいことをさせてくれている家族、そして周りの人たちにも支えられていることに感謝ですね。若いからとか関係なく『今しかできないこと』をやりたいと思った時に、行動しないともったいないですよ。いくつになっても、今を楽しめる生き方ができたらいいなって思います」

 

山本さんとじっくり話をしていて、素直に人生を楽しむ気持ちへの熱を感じました。それは、繊細な色や形をつくりだす陶芸作品にも楽しさが反映しているのだと思います。やりたいことを実現させるには、実はたくさんの苦悩や迷いがあって。それでも動き続けて追求できるのは、山本さんにとっては普通のことなのかもしれません。

 

「辞められるんだったら辞めたいけど、結局私には、陶芸しかないのかなって思うんですよね」と話す山本さん。その言葉を聞いて、好きなものに出会い、その道に進もうと選択した人の強さを感じたような気がしました。



陶芸家 山本勘弥さん

1972年生まれ。東京都出身。栃木県益子町で修業後、97年より宮崎県で作陶。05年西部工芸展入選。06年栃木県茂木町に移り薪窯を築く。栃木県益子「スターネット」にて取り扱い開始。11年東日本大震災により薪窯が倒壊。その後、宮崎県に移住。準備期間を経て「勘窯(かんがま)」を再開。友人や顧客の協力を得て18年6月に陶器を高温で焼き上げる伝統的な窯「登り窯(のぼりがま)」を完成し、登り窯で作陶を再開。同年10月に初めて窯出しをする。