誰もが輝ける社会のために。ハンディをはねのけるフロントランナー
WORK
株式会社ボラシェア 就労促進室 室長、Blue Ocean教室長木下 大輔さん
\ 木下 大輔さんってこんな人! / ■3つの障がいと共に自立して生きる ■会社員兼パラリンピック出場を目指す車いすアスリート ■障がい者意識を教育から変革!当事者として選択肢を提示 そんな木下さんのこれまでの歩みとは?詳しく話を伺いました。
「自分のことは自分で」自立を見据えた両親の教育
自己紹介をお願いいたします!
木下大輔(きした だいすけ)宮崎県都城市出身、1994年7月生まれの29歳です。
生まれつき「先天性の脳性まひ」と「ヒルシュスプルング病」を持っています。
また、大人になってから発達障がいの診断を受けました。
小学校1年生から3年生の途中まで、宮崎県立清武せいりゅう支援学校に在籍しました。その後、地元の都城市立縄瀬(なわせ)小学校に転校。
卒業後は、都城市立高崎中学校、宮崎県立高城高等学校と、支援学校ではない中学・高校に進学しました。
大学は、宮崎大学工学部環境ロボティクス学科に進学。
現在、障がい者の就労支援事業を行う株式会社ボラシェアで就労促進室室長として勤務しながら、パラリンピック車いす陸上競技への出場を目指し、練習に取り組んでいます。
「先天性の脳性まひ」と「ヒルシュスプルング病」はどのような病気なのでしょうか?
「先天性の脳性まひ」は、脳への損傷により引き起こされる運動神経の障がいのことです。
僕の場合は両下肢と両手にまひがあり、日常生活では車椅子を使用しています。
「ヒルシュスプルング病」は、腸の動きを制御する神経細胞が生まれつき欠如しているために腸が動かず、腸閉塞などを起こしてしまう指定難病疾患です。僕は、大腸だけでなく小腸も半分動いていない状態で生まれたため、生後間もない頃に胃と小腸を繋げる手術を受けました。
僕の障がいが分かった時、両親は「なんでもやらせてみよう、この子にはできないことはない」と思ったそうです。
そして将来を見据えて「自分のことは自分でやらせる。できないことは人に頼むか工夫をして自分で解決させる」というスタンスで僕を育ててくれました。
「自分の事は自分で」とは、具体的にどのようなエピソードがありますか?
幼少期から、車椅子を動かすのも服のボタン掛けも、自分のことは自分でしなさいと両親から言われていました。
僕は両手にまひがあるのですが、そんなのお構いなし。障がいがあるからという言い訳は通用しませんでした。
小学3年生から普通学校に通学する際には、事前に学校の先生たちとの面談が行われました。そのとき何ができて何ができないのか尋ねられたのですが、「あなたのことなんだから自分で答えなさい」と両親から言われ、自分で回答しました。
そのような環境で育ったからなのか、僕自身も「障がいがあるからできない」という先入観を持たず、「どうすれば自分でできるようになるのか」を自然に考える癖がつきましたね。
海外アスリートの生き方に刺激を受けた、オーストラリア留学
障がいがあるからできないという先入観がなかったからこそ、ぶつかった壁もありました。
小学6年生の時、野球が好きで地元の野球チームに入ったんです。当時は本気でプロ野球選手になりたいと思っていました。
でも両親から「障がいがあるからプロ野球選手になれないし、あなたの体ではスポーツで稼ぐことはできない」と現実を突きつけられました。何よりも、障がいがあるからという言葉がすごく悔しかったですね。
スポーツを諦めることができないままいた中学2年生の時、学校の図書室でパラリンピック車いす陸上の選手が書いた本を見つけたんです。
その選手はスポーツ選手として活躍しているだけでなく、海外に行き、車も運転して、結婚もしていた。障がいがあってもスポーツができる!やりたいことを諦めなくていいんだ!と衝撃を受けました。
1冊の本から可能性を知ることができたんですね。
図書室でその本を見つけていなければ、パラリンピックの世界を知ることはなかったでしょう。
将来自分がパラリンピックでメダルを獲ってメディアで取り上げられたら、宮崎の障がい児たちに選択肢を示せるんじゃないかと思いました。
野球でメジャーリーグへ行くことは、確かに難しいかもしれないけど、車いす陸上なら小さくクラス分け(※)されているから、僕でも世界で戦えるはず。
その瞬間から、パラリンピックでメダルを獲得することが僕の目標になりました。
※車いす陸上競技では、障がいの部位や程度による運動能力の差により不公平にならないよう、同程度の障がいのある選手同士で種目などが分けられる。
当時中学2年生かと思いますが、その後車いす陸上の練習はどのようにされていたのですか?
近くに車いす陸上指導者がいなかったため、中学、高校と自己流で練習を続けました。宮崎の車いす陸上チームの練習に参加したり試行錯誤しましたね。
大学進学後も陸上部に所属しつつ独自のメニューで練習し、大学2年時の日本選手権100mで2位、ジャパンパラ競技大会で3位の成績をおさめることができました。
中国での世界大会にも参加し、結果は2位。
もっと世界を知りたくなって「トビタテ!留学JAPAN(※)」のプログラムを利用し、大学4年生の時にオーストラリアのニューカッスルに5ヶ月間陸上留学に行きました。
リオパラリンピックのメダリストが在籍するチームに所属し練習をしたんです。
※意欲と能力ある全ての日本の大学生や高校生が、海外留学に自ら一歩を踏み出す機運を醸成することを目的として、文部科学省が実施する留学促進キャンペーン。
留学してみて、印象に残ったことはありますか?
日本と海外とのスポーツに対する向き合い方の違いです。
日本はスポーツに対してストイック。競技だけに集中して人生の大半をそこに注ぐ、という雰囲気を感じていました。
もちろん海外選手も練習に一生懸命でしたが、スポーツだけではなくそれぞれ個人の取り組みもしていたんです。自分で会社を経営していたり、教育に携わっている選手もいました。
障がい者と健常者が対等にビジネスの交渉をしている姿も目の当たりにしました。ビジネスの世界だって、障がいの有無は関係ない。
スポーツ以外の場でもトップになれるという姿を見せてもらった気がしました。
海外に行くことでまた新たな可能性を知ることができたのですね。
パラリンピックで金メダルを獲るため、陸上1本で頑張ろうと思っていました。
でもきっと、アスリートの活動だけでは、社会にはなかなか認めてもらえない。
プラスアルファのことで社会にインパクトを残し、宮崎の障がい者に対する意識・障がい当事者の意識を変えていかなければ、と感じたんです。
留学先で見た景色を、日本でも当たり前にしたいという思いを持って帰国しましたが、当時は大学4年生。就職先を決めないといけない時期です。
このまま就職しても僕が本当にやりたいことはできない気がするというモヤモヤした気持ちを抱えていたとき、偶然見つけたのが、宮崎大学主催「第1回宮崎・学生ビジネスプランコンテスト」でした。
ビジネスの事なんて何も分からないし、アイデアもない。でも参加したら何か変わるんじゃないかと思い、友人たちと挑戦を決めました。
実体験を元に考案した「障がい者の航空機利用手続きを簡略化するアプリサービス」でグランプリを受賞することができました。
実際のプレゼンテーションの様子
また、ビジコンへの出場がきっかけで宮崎大学学長に声を掛けていただき、大学卒業後は、宮崎大学の特別助教授という役職をいただき、宮崎大学に就職することになりました。
宮崎大学ではどのようなお仕事をされていたのですか?
宮崎大学の「障がい学生支援室」の特別助手として働きながら、パラリンピック出場のための練習をさせてもらっていました。
充実した毎日を過ごしていましたが、同時に課題も感じていました。
プライベートで障がいのある友人の就労のサポートをしていたのですが、仕事があるのでどうしても時間が限られてしまう。もっとプライベートの活動と仕事にもっと相関性がでたら、相乗効果を図れるのになぁと感じていました。
加えて、この頃から障がい当事者自身が変わらなければいけないと一層強く感じていました。
なぜそのように考えたのでしょうか?
障がいを持つ友人の中に「障がいがあるから」という理由で自ら壁を作り自分の殻に篭ってしまった人がいました。コミュニティの幅は狭まり、体力も落ちてしまっている現実を目の当たりにしました。
でも一方で、留学先の障がい者アスリートたちのように、障がいの有無関係なく社会と対等に交わり関係性を築いている人も沢山いる。
その差に障がい者を取り巻く「教育」が大きく影響している気がしたんです。
社会は障がい者に対する意識が徐々に変化しているのに、障がい者自身の意識が変わっていない。障がい当事者の意識を変えるために、学校の教育だけでなく、家庭や社会における教育を繋げるような変化を起こしたいと考えるようになりました。
でも具体的に何をどう動けば良いのか分からなくなっていました。
そんな時、ビジコンの関係者の繋がりで株式会社ボラシェア取締役CFO(最高財務責任者)の後藤一(ごとう はじめ)さんに声を掛けていただいたんです。
何度かボラシェアで活動する中で、ここなら僕が目指していることが実現できる気がして、入社を決めました。
株式会社ボラシェアのことを教えてください。
株式会社ボラシェアは、2016年に東京都千代田区永田町で創業しました。その後2018年に宮崎市に本社を移転。
「障がい者就労100%」をミッションに掲げながら、障がい者人材紹介SHIMEIや就労移行支援事業 BlueOcean、放課後等デイサービス Good Jobsなどの教育サービスの運営、企業コンサルティングなどを行っています。
またボラシェアでも積極的に障がい者を採用し、そのノウハウを社会に繋げようとしています。これまで100人以上の人材を県内企業に送り出し、少しづつ成果が出始めています。
木下さんはどのような業務を担当されているのですか?
就労促進室室長として、障がい者の就職活動をサポートしています。
例えば、企業に出向いて障がい者の働き方を提案したり、障がい当事者を勇気づけたり、何が強みなのかを定めるなど本人をブランディングして希望の進路に向けて伴走します。
宮崎のような地方の場合、都心と比べて企業や仕事の選択肢が少なく仕事が選べないことが、障がい者雇用の課題でした。
でも社会は変わりつつあり、企業の受け入れ体制は整ってきている。あとは障がい当事者の気持ち次第だと感じています。
障がい当事者の気持ち次第とはどういうことでしょうか?
「障がいがあるから」という壁を、自分自身で作らないでほしいです。諦める前に適切な努力ができているかどうかを心に問いかけてほしい。
自然体で続けられること、それが適切な努力だと思っています。
嫌な事やしんどい事はしなくてもいいと思うんです。障がいの特性上、どうしても無理な時には周りに助けを求めることも正しい努力だと思います。
助けてもらいつつ自分も誰かを助けられる部分を持ち、自分の得意ゾーンで相手にどれだけ還元できるかを考えながら社会と関わることが必要なんじゃないかと思います。
車いすが必需品。仕事とプライベートを繋いだシームレスな日常
お仕事の必需品を教えてください。
車いすです。
また、車いす陸上競技用の車いすも大切な必需品です。
仕事がある日は朝6時に起きて、大淀河川敷周辺などで1〜2時間ほど練習してから出勤するという生活を5年間続けています。
休日は何をして過ごされていますか?
本を読んだり映画を見たりするのも好きですし、陸上の練習をしていることも多いですね。練習や試合で県外に行くこともあります。
僕が個人的にやっている活動は、見方次第では仕事にも繋がる。
プライベートや仕事の全ての経験を、社会・会社・仕事で関わっている障がい当事者へ還元できればと思っているんです。
小さな成功体験を積み重ねる。未来の自分を信じて
最後に、宮崎の若者に向けてメッセージをお願いします!
人ってどうしても、最初から大きな成功体験を目指そうとしがちなんです。
でもきっと、小さな成功体験は誰でも得ることができるはず。小さな成功を沢山積み重ね、それを大きくしていけるかが大切なんじゃないかなと思っています。
できないことを、いきなり100%にもっていこうとすると難しい。自転車だって最初からうまく乗れる人もいるし、転んでばかりの人もいる。でもそれでも練習したから乗れるようになると思うんです。
スモールステップで、ゲームみたいに目の前にある課題を一つ一つクリアしていけば、きっとゴールに辿り着けるはず。そう考えると可能性って広がるんじゃないかな。
今、ダイバーシティの概念がとても重要視されていますよね。多種多様なバックグラウンドを持つ人と関わることで、本当の意味での多様性を知ることができると思います。
ダイバーシティ&インクルージョンについて深く理解したいと考えている方がいれば、弊社のインターンシップにぜひ気軽に参加してみてください。
そして、障がい者就労100%という社会に向けて、壁を1歩ずつクリアしながら一緒に挑戦してくれると嬉しいです。