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オファサポートグループ 代表取締役社長服部 幸雄さん

\服部 幸雄さんってこんな人! / ■多方面に事業を展開する、オファサポートグループ創業者 ■父親の死をきっかけに、自立しようと決心 ■座右の銘は「負けて勝つ!」 そんな服部さんのこれまでの歩みとは?詳しく話を伺いました。

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住む場所も決めず、大阪へ。がむしゃらに働いた青年時代

自己紹介をお願いいたします!
オファサポートグループ代表取締役社長の服部幸雄(はっとり ゆきお)と申します。1975年生まれの49歳です。 宮崎県宮崎市で生まれ育ち、宮崎県立本庄高等学校の普通科を卒業後、関西で美容師の見習いや営業職を経験しました。 その後、宮崎へ戻り、2006年に南九州自動車教習所を創立。その2年後に株式会社オファサポートを設立しました。
https://ofa-support.com/
オファサポートグループでは、自動車教習事業を軸に多方面に事業を展開されていますよね。 なぜ、さまざまな事業に積極的に挑戦されているのでしょうか?
南九州自動車教習所は、業界の中では後発組です。少子高齢化社会の中で残存者利益(※1)を得るためには、自分たちなりの戦い方が必要でした。 そこで私たちは、自分たちが既に持っているものに、異なるものを掛け合わせて、ニッチ(※2)事業を作り上げていこうと考えました。 例えば、私たちは全国で初めて介護サービスに自動車運転リハビリを組み合わせた「カーリハ®&菜園デイみなみ」を運営しています。 教習所事業と介護事業って、普通は交わらないもの同士ですよね。でも僕らは、自動車学校のリソースを有効活用し、介護を掛け合わせることで"自動車運転リハビリ"という新たなシナジー(※3)を生み出しました。 さまざまな事業への挑戦は、後発組として自動車教習所業界で戦っていくための戦略なんです。

※1.残存者利益とは、供給が需要を上回り飽和状態になった市場や縮小傾向にある市場において、競合が撤退した後に生き残った企業が市場を独占することで得られる利益のこと
※2.ニッチとは、まだ誰も手をつけていない分野のように、現存するサービスや商品でカバーできていない隙間のこと
※3.シナジーとは、2つ以上の者、人、事柄が相互に作用し合うことで、機能や効果を高めること

 

 

 

 

そのような服部さんのビジネス的思考は、社会に出てから自然と身についたのでしょうか?
僕は、早くに父親を亡くしているんです。 男4兄弟の中で育ったのですが、母親はひとりで僕たち4人の面倒を見ないといけなかった。幼い頃から自立したいという思いがあり、学生時代はバイトに明け暮れていました。 ちゃんこ鍋のお店やゲームセンター、弁当の仕出しなどいろんな仕事を経験しましたね。 なので、今の経営はその延長線にあるんだと思います。
学生時代の経験が、今に繋がっているんですね。 高校卒業後は関西でお仕事をされたんですか?
美容師をめざして大阪へ行きました。 母親が美容室をやっていたんです。パーマを施術した対価として、お客さんにお米をいただいたり。いわゆる物物交換の美容室でした。 僕は勉強が好きではありませんでしたが、美容師の仕事なら僕にもできるんじゃないかと思ったんですよね。 高校卒業後すぐ、住む場所や働き先を決めないまま、美容師になるために大阪へ行きました。

 

すごい行動力ですね!そこから住む場所や働く場所は決まったんですか?
アパートは高かったので、学生用の下宿先にお世話になっていました。 働く場所も、求人誌で探しましたね。大阪に出たからには中心的な場所で働きたかったので、道頓堀のアーケード街にある美容室の働き口を見つけて。 でも、実際に働いてみると、自分にはセンスがないと気づいたんです。手に職をつけることの難しさを感じました。 それで方向転換して、営業の仕事へ転職したんです。
なぜ営業の仕事だったのですか?
正社員として働きたい気持ちが強くて。その中で僕にできることは何だろうと考えると、選択肢は少なく、営業しかないなと思ったんです。 入社したのは、東京・名古屋・大阪・福岡に営業所がある会社で、フルコミッションのハードな営業でした。売れなければ給料もゼロ、経費も全て自分持ち。 厳しい環境でしたが、社内コンテストで優勝したりと良い成績を残せたんです。「自分には営業が向いているのかもしれない、営業畑で頑張ろう」と、がむしゃらに働きましたね。 休みも自分で決めることができたので、良い成績を収めたいと思ったら休めなかった。 そんな働き方で無理がたたったのか、体を壊してしまって、宮崎に帰郷したんです。

 

 

凛とした父親の姿を追い求め。自動車教習所の教員へ

宮崎に戻ってからも、しばらく営業の仕事をしていましたが、その後、自動車教習所業界を目指すようになりました。 実は僕の父親が、一時期、自動車教習所の先生をしていたんです。彼は仕事を転々とした苦労人でしたが、先生と呼ばれていた頃は、スーツをビシッと着てネクタイを締めて、とても凛として「かっこいいお父さん」という印象がありました。 亡くなった父親のことを思い出すと、その頃の姿が鮮明によみがえるんです。 それで「僕は学がないけど、父親と同じ"教習所の先生"に挑戦したい」と思い、26歳の時に自動車教習所業界への門を叩きました。
記憶の中のお父様の姿が、自動車教習所で働くきっかけになったんですね。
入社した自動車教習所の雑用の仕事をしながら資格の勉強をして、国家資格となる指定自動車教習所指導員の資格を取得。 それから3年後、29歳の時に独立して1人で自動車教習所を創立しました。 自動車教習事業は、創設にあたって多くの資金が必要になります。そのため、新規参入が難しい業界なんです。例えば運転教習を行う広い土地が必要ですが、僕も最初は土地なんて買えなくて。 だから土地を借りて、そこに中古車2台を購入して、お金を借り入れながらのスタートでした。
勤めていた自動車教習所を辞め、厳しい環境へ1人で飛び込もうとしたのはなぜですか?
組織人として、長いものに巻かれることが難しかったのかもしれません。 学生時代から自立してやってきた人間なので、企業で雇われていても「こうした方がいい」「ああした方がいい」というのがあるんですよね。僕なりに会社を良くしようと色んな提案をしていたつもりが、上層部に受け入れてもらえないこともあって。 そこに負けたくないというのもあったんでしょうね。反骨心が、独立の原動力になりました。

 

社員がリラックスして仕事ができるようなオフィス環境が整っている
SNSインフルエンサーとしても活動されている、広報の新中 弘弥さん

 

独立後、順調に業績を伸ばされていますが、自動車教習所や福祉施設などを運営する中で大切にしてきたことはありますか?
従業員には、自分たちの家族に使ってもらえるようなサービスを目指そうと伝えているんです。それはもちろん、僕も含めて頑張っている部分です。 働いている人が本当に良いと感じているのであれば、自然と自分の家族に利用させたいと思えるはずなんですよね。 ありがたいことに、自分が働いている教習所や施設にご家族を預けてくださる従業員もいますが、まだまだ未完成な部分はたくさんあって。 だから僕は、ユーザーの全ての声を把握したいと思っているんです。ホームページに寄せられたお客様の声や、届いた葉書は、リアルタイムで確認するようにしています。

 

経営者としての重圧に打ち勝つために。必需品は"お守り飴"

お仕事の必需品を教えてください。
ポケットの中に必ず、飴を入れています。 この業界に飛び込み、独立して、がむしゃらにやってきましたが、以前はプレッシャーからか健康面で不調を感じる時もあって。気分が悪くなったりした時のために、必ず飴を持っていました。 今は、たくさんの優秀な従業員が入社してくれて、会社を発展させるために一緒に頑張ってくれているおかげで飴の出番はなくなりました。でも心配性なので、お守り代わりに持っているんです。
お休みの日は、何をして過ごしますか?
休みの日は、仕事関係の方とゴルフに行ったりしますね。 従業員にもよく伝えているんですが、人が成長するためには、本を読むか、人と会うかのどちらかしかないと思っていて。 僕は、あまり本を読まないので、たくさんの人と会うことを大切にしています。

負けて勝つ!イノベーションを起こし、後ろ指を拍手に変える

服部さんの、今後の目標を教えてください。
自分の親や、従業員の家族が本当に住みたくなるような"唯一無二のまちづくり"がやりたいんです。 0〜100歳の全ての世代の方々に、楽しんでもらえて、安心してもらえて、喜んでもらえるようなサービスを作っていきたいと思っています。 弊社は、放課後デイサービスを運営していますが、その設立には僕自身の経験が関係しています。 学生時代に、障がいをもっていて、興味があることに対する記憶力が優れている友人がいたんです。僕はその才能を尊敬していました。 たとえ障がいがあっても、才能を活かし、夢を持つことができる環境を私たちのサービスで作りたい。そんな思いから、私たちにしかできないカリキュラムを組んだ子ども向けデイサービスを展開していています。 福祉事業に限らず、頑張っている全ての人に手を差し伸べたい。そんな想いがあるんです。
服部さんが運営する、放課後デイサービスの子ども達から贈られた寄せ書き

 

 

服部さんは大阪での仕事を経験し、宮崎で起業されていますが、これから宮崎県外への進学や就職を考えている方に向けてアドバイスはありますか?
都会に出ることは、非常に良いことだと思います。僕も歩んだ道だし、そこで学んだ経験があったからこそ今があると感じているからです。 ただ、県外に出る目的が「県外に住む」という目的ではなく、「そこで修行をする」という目的であって欲しいなと思うんです。 辛いことがあった時、これが一生続くと思うと人間苦しくなるんです。でもこれが修行の一環だと思うと、不思議とクリアできるんですよ。 いつか故郷の宮崎に戻ってこうしよう、ああしようというのを考えながら都会で過ごすと、きっとそこでの働き方や勉強の仕方って変わってくるし、都会で経験するいろんな困難を乗り越えられると思います。 目標を成し遂げる手段として県外に行くんだ、という考え方を持ってもらいたいなと僕は思います。
最後に宮崎の若者へのメッセージをお願いします!
僕は「負けて、勝つ」ということを大切にしています。 何かに挑戦したり、勝負したりすると、負けを経験することもあると思います。でも、負けることは決して悪いことじゃないと僕は思うんです。 負けると今まで見えなかった景色が見えたり、物事を俯瞰して見ることができるようになったりします。例えば、上から見下ろしていたものに対して、負けて立場が変わることで下から見上げるようになる。そういう経験をすることで、人間の深みは増していくんだと思います。 負けを経験することでしか、見えない景色もあります。 負けても、最後に勝てばいい。だから、負けを恐れず、挑戦してください。

 

 

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